871.196の回文数が完成するまでに私達は通じ合う事ができるだろうか。その重ねられた式達は歴史と、言わば距離であり、互いに打ち合う振り子に似ている。コツコツ、私達の音は古時計に委ねられ、心の底の融解をはかっている。「私達の数字は何だろう」いつか回るその日まで、私達はゆっくりと式を重ねる。
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872.一番近くで月を見たいと君が言うので、僕達は沢山の花を詰め込こんで小舟を漕ぎ出した。白銀の水面へ着くと君は大切そうに抱き上げた花々をそっと海へと離してゆく。
そうしてすっかり空になった舟に寝転んで、散る月を背に僕達は眠りについた。
ふたりぼっちの僕達は、どうせこの海からは溢れられない
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873.私達は着実に有限の夜を使い果たそうとしているね。解体新書に落とし込められた魂は平和を祈っているだろうか。君に幸あれ、「花を摘んでまいります。宝石で出来たあの花を」そう言って君から逃げて仕舞えば僕達は永遠でいられるか知らん。眠る君の髪をホチキスで布団と留める。今日は雪が降っている。
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874.教会の裏、祝福されない影のなかに埋葬されたのは、だれ?
念写にて、貰った月の裏の写真を抱き締めて宇宙を夢見るのは、だれ?
土の中、眠っている蛋白石は、だれ?
海底にて、いつか返そう海がとっておいた涙の持ち主は、だれ?
記憶の奥、約束した場所の約束だけしか思い出せないのは、だれ?
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875.スプーン一杯程のソナタを。小回りの効く冒険譚は一千一夜のこの街でのお話で、君を探す旅だった。三日月に攫われた君は鼻歌を奏で星を震わせている。コンクリートを右へ左へ、あの店のスノードームが近道で、その北極から月へ登った。「待ってたよ」革命前夜に似た笑みを浮かべ、君は一つ涙を零した。
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876.その日の昼の月は異様に大きかった。
白く幽としたそれは地平線と空の半分を占めている。
君の髪がぷかり揺らいだ。見渡すと其処に月に似た輪郭の魚や貝が泳いでいる。月の引力が強すぎて古代の海まで呼び起こしたらしい。
銀の輪を吐く僕達は互いに手を取り走り出した。きっと今日なら、空も泳げる。
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877.蛇口から声がした。
近くと水の滴る音に混じり、何を語っている。それはどれも聞いたことがない物語で、一心に聞いていると「次は、蛇口の声を聞く男」と声がした。はっとし、見渡すと部屋には水が溢れ、遂にとぷんと男を飲み込んだ。後に残るは、「お終い」と排水溝の飲み込む音だけだった。
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878.割った柘榴を見て、どうしようもなく君を思った。あれは夏の日の事で、どうしようもない事故だった。飛び散る君と柘榴の色の身分けが私にはつきません。携帯電話が特別な音で鳴る。『どこにいるの?』あれから君は、自分の命日に閉じ込められた。日付の変わらぬメールが今日もあの時間に届く。
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879.そのノートには生物の研究が書かれていた。昆虫や爬虫類、哺乳類、胎児…
最後のページには個人名が記されていた。左手の解剖に始まり断面図等、だが内容が思考、精神へ移ると共に字は荒れ、最後は「私が見ている」と書き殴られていた。
ゾッとし閉じた表紙の隅に、最後の検体の名前があった。
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880.11月の17時に栞を挟んでしまおう。過ぎた夕日と刻々と迫る夜の間に間延びした緑色、その中にパチンと光るのは、昼に置いてけぼりにされた様な真白いお星様。対して地面は目の眩む黒色に覆われ、「距離よ、距離」と抱きしめる様に無口に響くのは空に地の黒を伸ばす電信柱だ。此処は寂しい優しさがある。
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