ショートショート 831~840

831.生きているふりをして呼吸をしていた少女は、ふいと呼吸を止めたとき、その涼しさに驚いた。『私はもしや、魚じゃないかしらん』、海底散歩は陸の何処よりも気持ちよく、太陽の温もりも月の掌も澄み渡る。『おかえり』『おかえり』見知らぬ魚や蛍石がそう呟いた。これは自殺の話でしょうか?

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832.紅茶に光る月ごと飲むと、それからマグカップには月が映らなくなった。『あんまりだ!』とマグカップはめそめそと私を呪う。

それから私は毎晩マグカップに、月代わりの大きい黄の金平糖を三つばかし入れたホットミルクを作る様になった。

『良い夜ですね』

そんな昔話、今日も私は友人と夜を更かす。

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833.水面に落ちた水滴が跳ね返ったとき、その水滴はもう先程の水滴では無いのは、溶けた芋虫が蝶に変わる事と何ら変わらず、進化とは過去の殺害に極限に近い。今朝目覚めた君はそれまでの君だろうか。知る責任は呪いに等しい。羽の重さは常に未来だけにあり、過去事実と現在は同じグラフには置けない。

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834.迷宮です。僕はずっと探していて、海底から草はら、マハラジャの宝箱やアラビアの紫色の煙まで歩き巡った。僕たちは生まれるずっと昔に会って、そうして何か約束をしたのだけど、今はもう『君』だけしか覚えていない。でもきっと、君がすこしでも僕を歌ってくれたのなら、僕は飛んで行けるのだけど。

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835.アラビアは星の名産地です。

その濃淡鮮やかな夜空は星が悠々と育つに相応しく、また毎夜、踊り子達を取り巻いている花々の香りが紫煙となり、妖しく夜と混ざります。そのおかげかとびきり大きく、そして鳴るように輝く星ができるのです。

しかしこれも昔の話、今やとある少年だけが夢で知った御伽噺です。

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836.友人はよく魘される。

真っ青な顔をして歯を鳴らし、硬直し指を強く組み、冷や汗をかきながら、ボソボソと懺悔でもするかの様に目を瞑っているのだ。

「彼の神とは誰かしらん」。彼の懺悔を一番知っているのは、きっとこの僕なのだろう。

『許しましょう』額を拭うと彼はまた、寝息を立て眠り出した。

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837.それは春によく似ていた

四月に膨らんだシャボンの行方は誰も知らず、誰か旅路を願っただろうか 瞬き程に一瞬で輪廻転生よりも長いそれは遠い昔に去って行く 目を瞑る星、ただ月だけが薬箱に似た手を伸ばしている 夜に包装されればきっと、それは一つの永遠となる

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838.祖母が私に着物を遺した。私を女と思っての事だった。なので私は上等な白い桐箪笥を買い、彼女達の墓場とした。「遺品の期限とは、いつまでだろうか」愛しい祖母を思い出し、箪笥の引き出しを撫でる。

今日は彼女と出かける日だ。喫茶デートとは君らしい。

私は髭を整えて、ゆっくり扉を開けて出た。

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839.海水浴で無闇に沖から遠ざかり足のつかない処で、「私が死んだら父は何か悔いてくれるか知ら。溺れたら母は泳いでくれるか知ら。私は、青白く、ぐったりと動かぬ、後は崩れるだけの哀れな水死体になるか知ら」鼻血が一筋でも垂れれば素敵だな、と思いながら、優しい波にて無様に沖へと押し戻される。

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340.ずっと忘れられた猛獣館で、一輪の巨大な蛾が檻の中を泳いでいた。

それは天窓から差す月光に香りによく似た鱗粉を漂わせている。ジャングルの再現だろう深緑を下に携えた姿は、紫色の夢の様だった。本当にそれが夢ならば、これはどこまでも自由だろう。

ただ私は、それを逃す方法がわからないでいる。

WUNDERKAMMER

名作は、名作と呼ばれる理由があるはず。 それを求めて映画や本を観ています。 あとは奇妙なもの、怖い話や自分が好きなものをここに集めています。

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