1351.祭帰りの海辺にぽつんとあったその出店には瓶詰めの夜が売られていた。一本持ち帰りお皿に注いでみると藍色をした液体と、カチンと硬い音がして真鍮色の可愛い満月が転げ出た。どこか生きているのか半分沈むそれと視線が合う気がして、ふと辺りに金木犀の香りが漂い、瓶底には『秋夜』と書かれていた。
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1352.月光を泳いでこの街で一番高い鉄塔の上に座り、林檎を夜へ浮かべていく。「空っぽの楽園に何を持っていこう」と言うので私は檸檬を思った。きっと檸檬があったなら今夜漂ったのは夏の様な黄色で、確かにレモン水の夜に沈む街は素敵だと君が微笑みながら、夜明け前、私達は街が狂うまでをカウントする。
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1353.ラジオに遺言を残した潜水艦が青い瓶底から持ち帰ったのは世界で一番古いなぞなぞの答えだった。「禁断の果実についての解毒剤は月にあるらしい」と古びた月の地図を見ながら君が言うので、私は昼の月を思い出す。もう扉の無くなった鍵達、彗星だった夏の結晶、この博物館は寂しさだけを蒐集している。
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1354.慣性の法則に従い時間の上で揺れる私達はシャボン玉の油膜のように尊く尊く尊くあっては一瞬にして割れてしまうんだアーメン。月が飼うケンタウロスの少女は箱庭の事を世界と呼び、泉に浮かんだ蝶の死骸はいつまでも沈黙を愛していて、人間が完璧な神様を作るまで私は君を夢で探すよ。おやすみなさい。
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1355.どこかでケンタウロスの化石が見つかった。肋骨の一部がオパール化していたとの噂。「あのケンタウロスは幸せだっただろうか」と言いながら君が幸福論を渡すので私達は幸福について定義しながら、完成した本の塔は月光の重さを知る様だった。寄り合って眠る私達が枕にした解体新書から海底の音がする。
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1356.君が肋骨に林檎を飼っていた。月明かりに透かされた体の中に見えるその一枝はとても命に似ていて、骨の檻は眠った様な無機物さで、「内緒だよ」と君が微笑むから簡単に永遠を信じてしまいそうになる。「私が死んだら代わりに育ててね」と指切りをする私達を包む病室の壁が白々と、夜を切り取っていた。
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1357.釣り上げたシーラカンスのお腹を切ると中から夜が流れ出した。青い血は天の川となり噛み砕かれる氷の様な音を立てながら地面を濡らし、最後に月が平面になった夜を辿って海に落ちていった。女神の様に仄白く輝いたそれは地上のどの月よりも美しく、私達を見下ろす月がこれを見たのかは分からなかった。
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1358.月の荒野を歩く私は迷子にならない為に見つけねばならない物が分からなくて、何か無いかと探ると胸ポケットに切り抜かれたショパンの楽譜があるのに気が付いた。小さなワルツを口遊んでいると前にMAPと書かれた白紙が落ちていたので「私」とだけ書き込んで隣に蹲り、私は、少しだけ長く眠る事にした。
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1359.本が光っていたので開くと、昨日の月が飛び出した。それは夜の余白となって今日の光に溶けていく。
本が動いていたので開くと、昨日の夢が煙り出た。それは春の残香となって次の夢へと飛んでいく。
本が濡れていたので開くと、昨日の涙が溢れ出た。それは青い手紙となっての明日の海へと泳ぎゆく。
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1360.月光に沈む街のコンクリートの白さは世界中を行方不明にして、古代魚に混じる私達は報われないダンスを踊る。揺らぐ世界で懐中電灯を無くした君の手はかじかんで、暖まらない私達の気泡はいつか星となり星座を造るから今のうちに骨格標本を見ておこうね。深海に降る雪は、神様がいた頃を知っている。
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