災難の前に、流行る歌があることはご存じだろうか。
それは今は歌詞しか残らず、また内容はこれから起こる災難事変に沿っていると思わせるものが多いという。
これは幸田露伴の「震は亨る」というエッセイからの引用。
明治の末年の大洪水に先だつて、忌はしい謡が行はれた。それは今でも明記して居る人が有らうが、「たんたん、たん/\、田の中で……」といふ謡で、「おッかあも……田螺(たにし)も呆れて蓋をする」といふのであつた。謡の意は婦人もまた裳裾を寨(かゝ)げて水を渉(わた)るに至つて其影悪むべく、田螺も呆れて蓋をするといふのである。其謡は何人が作つたか知らぬが、童幼皆これを口にするに及んで、俄然として江東大水、家流れ家洗はれ、婦女も裳裾をかゝげて右往左往するに至つたのである。此度の大震大火、男女多く死するの前には、「おれは河原(かはら)の枯芒(かれすゝき)、おなしおまへも枯芒、どうせ二人が此世では花の咲かないかれすゝき」といふ謡が行はれて、童幼これを唱へ、特(こと)に江東には多く唱はれ、或は其曲を口笛などに吹く者もあつた。其歌詞曲譜ともに卑弱哀傷、人をして厭悪の感を懐かしめた。これは活動写真の挿曲から行はれたので、原意は必ずしも此度の惨事を予言したのでも何でも無いが、大震大火が起つて、本所や小梅、到るところ河原の枯芒となつた人の多いに及んで、唱ふ者はパッタリと無くなつたが、回顧すると厭(いや)な感じがする。菩薩蛮(ぼさつばん)行はれて安禄山(あんろくざん)の乱の起つた昔話や、泣面化粧(なきつらげしやう)が行はれて国の運の傾いた類を、支那史上から取出して談ずるまでも無い事だし、又「まひらくつのくれつれ……」の童謡が行はれて、斉明天皇の御代に我軍が大陸で敗績したり、好い方では「かつらぎ寺の前なるや豊浦(とよら)の寺の西なるや、おしとど、としとど、桜井に白璧(しらたま)しづく……」の童謡が行はれて後、光仁天皇が御登極あつて、前代の弊政を改められた事などを引出して語るまでも無いことであるが、忌はしい謡、或は妙な謡などが行はれたり変な風俗が行はれたりなんどした後に大きな事変があると、各人の記臆の中から、忌はしく感じたり異様に思つてゐた事などが頭を擡げて来て、さも/\其事変の前表予告でゞも有つたかの如く復現して来るものである。古の史家などは多くは此を前兆であらうかと取扱つて、そして正史にも野乗にも採記したのであるが、これも亦たしかに幾分か有理なる社会事相解釈の一面である。
現代訳↓
明治の末年の大洪水の前に、不吉な謡が流行った。それは今でも明記している人がいるだろうか、「たんたん、たんたん、田の中で……」という謡で、「おっかあも……タニシも呆れて蓋をする」というものであった。謡の意味は婦人も服の裾を持ち上げ、水を渡るに至り、その影を憎むべく、田螺も呆れて蓋をするというのである。
この謡は誰がが作ったのかはわからないが、童幼が皆これを歌ってから、江東大水、家流れ家洗はれ、婦女も裾を持ち上げて右往左往するに至ったのである。
今回の大震大火、男女多く死するの前には、「おれは河原の枯芒(かれすすき)、おなしおまへも枯芒、どうせ二人が此世では花の咲かないかれすすき」という謡が流行り、童幼これを唱へ、特に江東では多く唱われ、またこの歌を口笛などに吹く者もいた。この歌詞曲譜ともに卑弱哀傷、人を厭悪の感を想わせた。これは映画の挿曲からのもので、原意は必ずしも此度の惨事を予言したのでも何でも無いが、大震大火が起きて、本所や小梅、到るところ河原の枯芒となった人の多いのをみて、歌う者はパッタリとなくなったが、思い返すと嫌な感じがする。菩薩蛮(ぼさつばん)の詩が流行ってから安禄山(あんろくざん)の乱の起った昔話や、泣面化粧(なきつらげしょう)が流行ってから国の運の傾いた類を、支那史上から取出して話すまでも無い事だし、又「まひらくつのくれつれ……」の童謡が流行って。斉明天皇の御代に我軍が大陸で敗績したり、良い方では「かつらぎ寺の前なるや豊浦(とよら)の寺の西なるや、おしとど、としとど、桜井に白璧(しらたま)しづく……」の童謡が流行ってから、光仁天皇が御登極あって、前代の弊政を改められた事などがあった、不吉な謡、或は妙な謡などが流行ったり変な風習が行はれたりなどした後に大きな事変があると、各人の記臆の中から、忌わしく感じたり異様に思っていた事などが思い浮かんで来て、さも事変の前表予告でも有ったかのように復現して来るものである。
歴史家などの多くはこれを前兆であろうとと取扱って、そして正史にも野乗にも採記したのであるが、これも確かに、有理なる社会事相解釈の一面である。
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