彼女の実家では、かつて黒い犬を飼っていた。 「血統書とかはなかったけど、おそらく甲斐犬」と彼女は言う。 彼女が物心ついた頃には、もう立派な成犬だった。
頭の良い犬だったが、奇妙なことがあったらしい。 ドアを閉めていた筈なのに、いつの間にか家の中に入っていたということが多々あったというのだ。 ふと気が付くと、自分のすぐ横で尻尾を振っている、といったような。 家族皆がそう感じていたのだが「気のせいだろ」と流されていた。
ある夏の日、いつもと違う方向から彼女が帰宅したところ、犬は庭で寝そべっていた。 彼女にまだ気が付いていない様子だ。 然したる理由はないが、何となくそこで立ち止まって犬を眺めていたのだという。 気持ちはわかる。私も犬好きだから。
とその時、家の中から母親の大声がした。何かひどく慌てているようだ。
犬は頭を振って起き上がると、台所の勝手口に向かった。 少しの間ドアの前でお座りしていたが、やがてすくっと後足で立ち上がる。 普段から二本足で歩き慣れているかのような、実にスマートな立ち姿だった。 あれあれ!?、と彼女が見守る前で、器用に前足でノブを掴む。 ガチャリと一発で開けた。そのままスタスタと二足歩行で中へ進む。 そしてドアはパタンと中から丁寧に閉められた。
しばし、呆気に取られたそうだ。
その夕食時、家族にその話をしてみたのだが「まぁそういうこともあるだろ」とあっさり受け止められた。 特に弟からは「あいつ、時々二本足で歩いているよ」とまで言われたのだと。 その時は弟が声を上げて気付かれてしまい、すぐ四つ足に戻ったらしい。 「アレでもうちの犬だし、別に害があるわけでもなし。構わんだろ」 父親がそう述べて、この件についてはそれきりになったという。
犬が十八才を迎える頃、母親が「この子は元気だねぇ。まるでモッケみたい」と口にした。
ちなみにモッケとは、その土地での物の怪の呼称だ。 確かに若い時とあまり動きが変わらないな、と彼女も感じた。 元気に越したことはないから、まぁ良いか。母娘でそう会話したのだという。
それから数日して、犬は居なくなってしまった。 首輪が綺麗に外されて、鎖もきちんと畳まれて置かれていた。 母親は「誰かに盗られたのかねぇ・・・」と浮かない顔だったが、 彼女と弟は自分で外したんだと信じて疑っていない。
あの時さ、モッケとか言わなかったら、姿消さなかったのかなぁって思うのよ。 ああいうのって、正体がバレたら御山へ帰るって、うちの地方じゃそう言われていたし。
・・・モッケでも構わなかったんだけどな、うちの家族。 彼女はそう寂しそうに口にした。
その気持ちもわかる。やっぱり私も犬好きだから。
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