または津山三十人殺し。
横溝正史の八つ墓村の元になった事件でもあります。
1938年に起こった事件。
犯人は都井睦雄(といむつお)
6歳の時に津山に引っ越し。資産があり、頭がよく不自由な事はあまりなかったようです祖母の存在が強かったようで尋常高等小学校の就学が一年遅れたり進学を断念。
新庄高等小学校を卒業後に肋膜炎を患い、無為な生活をしていました。
病状はすぐによくなり、実業補習学校に入学しましたが、姉の結婚を境に徐々に学業を嫌い、引き籠るようになりました。
一方、自作した小説を近所の子供に読み聞かせ、子供たちと仲良くなりました。
昔の話でたまに聞く「夜這い」
ここの地域にも同じような風習があり、そういった形で多くの女性と関係を持つようになりました。
彼が18歳ほどの時です。
1937年、都井は徴兵検査を受けましたが結核を理由に不合格になりました。
その話は村中に広がり「病気もち」「兵隊になれない奴」と夜這いを拒まれるようになります。
何不自由もなく、求めれば手に入れられた快楽が無い。
その時代の女性の立ち位置は今ほど男性と同等ではありません。
そんな女性に男として否定される。役立たずと蔑まれる。
子供からの人気も危うくなってしまったのではないでしょうか。
狭い村で拒否される。自分の逃げ場がなくなったと感じたのでしょうか。
感じたことの無かった劣等感。どうしようもできない状況。
不満が溜まります。
いつからはっきりとした殺意に変わったのでしょうか。
1938年5月20日電線を切り停電させます。
1938年5月21日決行。
詰襟の学生服にゲートルと地下足袋。
頭にはちまきで懐中電灯を二つ刺し、首にはライト、腰に日本刀、匕首二振り。
そして手には猟銃。胸には憎悪。
計画的かつ冷静な犯行で次々に30人を殺害。
第一被害者は祖母でした。
最後は遺書を書くための紙とペンを都井の作った話を聞きに来ていた子供の家に行きます。
「うんと勉強して偉くなれよ」
そう言葉を残し、去っていきました。
その後遺書を残し、銃で胸を打ち自殺。
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
— 「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)
以前都井と関係があったが、違うところに嫁いだ女性が21日に帰ってくる。
この女性を殺すために21日に殺害を結構したようです。
しかしこの女性は逃げ切り助かっています。
今でもこの事件は色々なドラマや物語のベースになっています。
やはり色物で、犯行当時の恰好がキャラクターとしてもはやドラマチックだからという事もありますがこれほど人間臭く、同情される事件も珍しいのではないでしょうか。
コンプレックスに悩む事は苦しい事です。
しかもそれを他人、それも狭い村でほぼ全員から指摘される。
優しかった女性たちが掌を返したように非難してくる。
優しかった女性が自分を無能だと捨てて他の男の所へ行ってしまった。
女性が憎い。奪った男が恨めしい。
容易に感情、その感情を想像出来ます。
この事件に肯定する訳ではありませんが、もし自分が同じ立場だった場合、
衝動を抑えることが出来るのでしょうか。
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