今からはもうだいぶ前のことになります。そのころ私は美術の専門学校を卒業したばかりで、さらに金属工芸系を深く学ぶためにその地方の中核都市へ出てきていました。
学校の手続きはすぐに済みましたが、アパートを探さなくてはなりません。当時私は片親の家庭で仕送りなどあまり期待できませんでした。
専門学校もアルバイトをしながら卒業したくらいでしたので、あちこちの不動産屋を回り少しでも条件がよく家賃の安い物件を探していました。
そして数軒目の不動産屋でありえないような格安の物件を見つけたのです。それはアパートではなく一階建ての一部屋で隣に住む大家さんが自分の家の庭に離れとして建てたものでした。
そして家賃はちょっと考えられないほど安かったのです。なぜこのような物件がいつまでも残っていたのかというと不動産屋からは「大家さんたちは老夫婦で、だいぶ前に息子さんを亡くされている。その思い出がやっと薄らいできたので、息子さんが使っていた離れを人に貸そうという気持ちになった。
ただ同じ敷地内にあるようなものなので、できれば女の人に借りてもらいたいと思っている」このような話を聞かされました。さらに「大家さんたちは借り手と事前に面会して、その人が気に入ったら決めると言っている」とのことでした。
その場所は私の学校からは二駅しか離れておらず通学にも便利で、ぜひともここに決めたいと思いました。
不動産屋にセッティングをしてもらい、大家さん夫妻との面接に臨んだのです。不動産屋の車で大家さんの家へ行き、玄関のチャイムを鳴らしました、出てこられたのはご主人が70歳代、奥さんが60代半ばといったところでしょうか、どちらも白髪の上品な人たちです。
「ささ、お上がりなさい」私たちは和室に案内されました。そこは裏の山側に面した上品な一室でしたが、床の間に他の調度にそぐわない鷹の剥製があり鋭い目を光らせているのが少し異様に感じられました。
そうして私は学校のことや将来の夢などをご主人に問われるままに語りました。奥さんのほうはつねににこにこと微笑んでおられるだけでした。
ただ私が出身地の県のことを話したときに、奥さんは「これは」というような顔をしてご主人と目配せしたのを覚えています。
ご主人は話の最後に「これはよいお嬢さんだ、どうだね○○(奥さんの名前)この方に決めようじゃないか」「ええ、それがよろしゅうございますね」こうして私は夫妻の家の離れに住むことになったのです。
そして帰る前に離れの部屋を見せていただきました。
そこは夫妻の家から10mばかり離れた庭の中にあり、外観はまだ新しいものでした。
「ここは元々は息子が動物を飼育するための小屋として使っていた場所で、ひとり息子が死んでから今年でちょうど10年になる。それで私たちもいつまでも悔やんでいてもしかたないと、ここを建てかえて人に貸すことにしたのだよ。あなたのような人に住んでもらうことになってよかった」とご主人。
「ほんに。息子は生き物の好きな子でしてねえ」と奥さん。それを「これ」とご主人がたしなめ、「あなたが都合のよいときに引っ越してきてください、いつでもかまわんよ」とおっしゃってくれます。
私がお愛想のつもりで息子さんの仕事について尋ねますと、ご夫妻は顔を見合わせていましたが、ご主人が「なに、わたしの跡を継いで職人をしていたんです。あなたも工芸をおやりになるそうで、息子が生きていたら気が合ったかもしれませんな」と答えられました。
部屋は6畳の一間に台所、バス・トイレと普通のアパートと違いはありませんでした。ただ建物の外観に比べて内部がせますぎるように思われました。しかし壁などを厚くしていねいに造っているのだろうと解釈することにしました。
それから1週間後、学校の始まる3日前に引っ越しました。荷物は布団や小型冷蔵庫など最小限で、さほど時間はかかりませんでした。
その時は私の母も一緒でしたが、大家さん夫妻は満面の笑みで出迎えてくれ「何か不都合なことがあったらいつでも言ってきなさい」「これはこの地方でとれる蕗の煮物だよ」と奥さんからはお料理までいただきました。
冷蔵庫の中身はまだ買っていなかったのでありがたく思いました。母は翌日も仕事があるためすぐに帰り、スーパーなども近くにあったのでとりあえず買い物をして荷物の整理をしているうちに早くも日暮れとなりました。
その日は疲れていたのでスーパーで買った出来合いのお総菜といただいた蕗の煮付けを食べて早く寝ようと思いました。その蕗の煮物を一口食べて奇妙な味がするのに気がつきました。
不味いというわけではないのですが不思議な香りがするのです。西洋ハーブのアニスによく似ています。この地方特有の味付けかと考え、せっかくのご厚意にこたえないのも失礼と思って全部食べてしまいました。
布団を敷いて横になるとすぐに眠ってしまいました。そして奇妙な夢を見ました。
それは大広間のような和室に大勢の人が集まりみな喪服を着ています。どこか田舎の大家のお葬式のようです。そうしてそこに次の間から自分が和服の花嫁衣装を着て入っていくのです。
すると両脇から大家さん夫妻がやはり喪装で、昼に見たような満面の笑みを浮かべて私を迎え、手を取って上座の席に連れて行きます。隣の花婿の席は空いています。やがて一同は両脇に分かれて座ります。そして一斉に拍手をします。
すると正面のふすまが開き、紋付袴の花婿らしき人が入ってきます。
その顔はわかりません。なぜなら黒い頭巾で頭部全体を覆っているからです。花婿が私の横の席にすわります。すると獣臭さがわっと襲いかかるように鼻につきます。花婿が私の手をとります。
お婿さんの手には茶色いごわごわした毛が生えています。そうしてもう一方の手で自分の黒い頭巾を上に引っ張ります。紋付の肩に茶色い毛の束が広がります。
頭巾をすっかりとってしまうと、そこにあるのは何とも種類の判別しない動物の頭です。しかも両目がありません。
私は絶叫しました。
そして目が覚めました。枕元の時計を見るとまだ2時過ぎです。とりあえず夢とわかってほっとしたところでしたが、すぐに部屋の中が夢と同じに獣臭いことに気がつきました。
何かがいる気配がします。それも一匹や二匹ではありません。
大きなもの、小さなもの、羽ばたくもの、這うもの、あらゆる獣が私の布団を取り囲んでいます。少しでも動けば襲いかかってきそうに思えます。
部屋の中は真っ暗ではありません。電気製品や時計のわずかな灯りで見た目には何もいないのです。それでも尋常ではない殺気のために身動き一つできません。
そうして何時間が過ぎたでしょうか。カーテンごしに朝日が当たっているのがわかります。すると一つまた一つと小さなうなり声を残して、それらの獣の気配は部屋の南側、押し入れのあるほうに吸い込まれるように消えて行ったのです。
どれくらい布団をかぶっていたでしょうか。光が差し込んだ部屋の中はすっかり朝の雰囲気となり、昨夜のことはどこまでが夢でどこまでが事実だったのかわからないような心持ちになりました。おそるおそる時計を見るとまだ6時半を過ぎたばかりです。
私は起き上がり、昨夜の獣たちが消えて行った押し入れの前にいき戸を開けました。そこには昨日私が入れた段ボール箱とわずかの寝具があるだけでしたが、突き当たりの板を押してみるとなんだかごわごわします。
後ろになにか柔らかいものがあってそれに板が当たっているような感触なのです。そこで押すのをやめ、てのひら全体をあてて横にずらそうと試みました。
するとそれほどの力ではないのに板が大きく動きました。・・・そこに見たものは十数体の動物たちの剥製でした。毛のある生き物ばかりではありません。
私は夢の中のように大きく悲鳴をあげて、パジャマのまま部屋の外に飛び出しました。
離れの外に出ると、少し離れたところに大家さん夫妻が立っていました。夢で見たとおりの喪服姿でした。
ご主人が口を開き
「あなたなら息子の嫁にふさわしいかと思ったのに残念だ・・・。」
奥さんが「杯を交わすまであと少しだったのに・・・」
さも心惜しそうにつけ加えます。私はそのまま家の門を走り抜け大通りに出ました。そしてその日一日を大勢の人に紛れて駅で過ごしたのです。
それからしばらくたって、荷物などは男性の友人に無理に頼んで取りに行ってもらいました。
その人の話では、離れは取り壊されてすでになく、母屋も引っ越しをしたらしく中はがらんとした状態で私の荷物だけがそっくり玄関先にまとめられていたということです。
あれからずいぶん立ちますが、今でもあの押し入れの奥でちらと見たもののことを思い出します。たくさんの剥製に囲まれるように紋付袴姿の男性がひっそりと佇んでいた気がするのです。
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