アレハンドロ・ホドロフスキー監督作品
「初めて観客の事を想って作った作品」
「エルトポ、ホーリーマウンテンに続いてわが子と称する作品」
そんな肩書きのある映画です。
舞台はサーカス。
主人公は団長の息子フェニックス。
お父さんは飲んだくれのナイフ使い。
お母さんは狂信的宗教の教祖。
ある日サーカスに刺青の女と耳の聞こえ無い少女アルマがやってきます。
そこからどんどん歯車が狂っていく…。
気狂い、宗教、性、愛、死。
光ある処には必ず影がある。
どうしても人は光に影をつけたがる。と言った方が正しいのでしょうか。
サーカスは楽しいイメージの傍ら、色眼鏡と言いますか昔から「ケガ、動物虐待、見世物」という影が付きまといます。
この映画でも病気でゾウが亡くなり、葬儀が行われます。それもサーカスの影に繋がる伏線のようなものだったのかな。
宗教もその神を光としている人が居る傍らには批判する人が居ます。それこそ異教徒だと。
そのサーカスの影と宗教の影が見事にマッチして、より一層不気味で気狂いのような、ちょっとポップ感のある作品になったのかなと。
お母さんが作った宗教では「昔、二人の男に襲われ、その際に両腕を切り落とされ殺された少女」を聖女とし崇めています。
協会の真ん中には血の海を模したプールを作りそれを聖女の血「サンタサングレ」だと、キリスト教徒から「絵具じゃないか!」と言われても言い張っていました。
異教徒だ!と政府から協会を破壊されようとも一人聖女象に抱き着き、守ろうとしていました。
何を尊いと思うかは人それぞれですね。
そんなお母さんはお父さんが刺青女と浮気している所を目撃し、行為の最中に突撃、お父さんの股間に硫酸を浴びせます。
もだえ苦しみながらお父さんはお母さんへ攻め寄り、崇めていた聖女さながら両腕を切り落とし、そこへサンタサングレを作り出す。それでも消えない痛みに耐えかね自殺。
それらを間近で見ていたフェニックスは精神がおかしくなり長らく精神病院へ入院します。
ある日外から呼ぶ声がして見てみるとそこには両腕の無いお母さんが!
見ているだけで助けられなかった罪悪感からか、「僕がお母さんの腕になる」と言い出し、常にお母さんと行動し、手となり動きます。
お母さんと居るときは、この腕はお母さんの物。
しかしその境界線は瞬く間に無くなっていき、腕は独立していく。
「お前を汚そうとする女は許さない!殺せ!」
――自分が男女として幸せになってはいけない。許されてはいけない。
この時のお母さんがやたらわがままなのは、罪深い自分への罰の様でした。
たまにありますよね。何かに耐えれば何かに何かを許して貰えそうな気がする事。結局許すも許さないも自分次第なんですけどね。それに気が付くのが遅すぎたようです。
また自分の腕が確実に独立する時に、爪にネイルが付く演出があるのですが、「あ、腕がお母さんの物になった!」とわかる演出がなんともニクくて好きです。
終盤、幼少期に会った少女アルマと再会し、母に立ち向かいます。
アルマを殺そうとする腕(母)、それをとめる自分。両手を広げ待ち受けるアルマ。
この時のアルマは両腕無い聖少女とはまた対照的でした。
すべてが終わり、解放され、仲間が消える。
「僕の手だ・・・!」
そういって天へ伸ばす手は皮肉にも降伏のポーズであり。
ラストのすべてが紐解かれるシーンはまさに、ほろほろ崩れ落ち、何も無くなるようでした。
何もないという言葉が似合うラストです。あるのは愛しい少女だけ。
作品分類としてはサスペンスになるのでしょうか。
ホーリー・マウンテンのようなショッキングな血みどろも突飛した映像美も抑え気味で、エル・トポのように詩的という訳でもなく物語重視です。かといって全く絵として印象が無い訳ではなく、墓場のシーンや夢でのシーン、葬儀のシーンなど死にまつわる場面の美しさが素晴らしかったです。
詩のように断片的ではなく、物語のように、あれだからこうするという順序を追っているので話も分かりやすい。
お勧めです。監督作品の中で一番好きかもしれません。
是非是非。
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