夢の女性

これは俺が幼稚園の頃、もう30年以上前の話。


当時の俺はよく怖い夢を見てた。

迷路のような巨大な図書館で、大きな口のある毛むくじゃらの巨大な芋虫のような化け物に追われる夢。

『熱出した時に必ず見る悪夢』なんてのはよく聞くけど、俺は恒常的に見てたんだ。

その夢はいつも同じ結末だった。

ずっと化け物に追われるんだけど、図書館を逃げ回ってるうちに、本棚の影でうずくまって泣いてる女性を見つけるんだ。

その女性は真っ白なドレスを着て、頭には透けた布を被っていた。

夢を見ていた当時は気が付かなかったというか、そもそも知識になかったんだが、

思い返せばあれはウェディングドレスだったな。

彼女は花嫁だったんだ。

しばし見とれる。怪物はいつの間にか消えている。

意を決してその花嫁に声をかけ、何故か大人になってる俺が彼女の手を取ると、彼女が笑って鐘が鳴る。

そこでいつも夢は終わる。


見たことも無い女性なのに、何故かとても懐かしく、どこか悲しい想いがした。

今では細かく思い出せなくなってしまったが、彼女の笑顔はとても綺麗だったはずだ。

そんな夢をほぼ毎日のように見てたんだが、ある日を境に見なくなった。

いや、ある出来事を境に…と言ったほうがいいのかもしれない。


あれは7月の半ば、アブラゼミの鳴声が煩い暑い日だった。

その日俺は、珍しく他県から家に来ていた母方の祖母に「もうすぐ兄になる」と聞かされていた。

その時にはよくわからなかったんだけど、家族が増えるってことはわかったので、

なんとなくだけど嬉しくて、ドキドキしてた。

昼飯を食った後、祖母と姉が買い物に行った。

家に残ったのは俺だけだ。

どうにもそわそわして、俺は家の中をうろうろしてた。

子供部屋を出て廊下をうろうろ。

台所で冷蔵庫を開けたり閉めたり、それからまた廊下に出てうろうろし、今度は両親の寝室に入った。

寝室からは居間に繋がり、居間からは台所にもつながっているので、俺は今度は別ルートで台所まで行こうと居間に入る。

意味なんか無い。

ただ落ち着かなかったから。


居間は昼なのに薄暗かった。カーテンが閉まっていて、電気も消してあったからだ。

ほのかに親父が吸ったタバコの残り香がする。

俺はこのどこか空虚で、ちょっと不気味な居間の雰囲気が好きだった。

台所の入り口に向かって居間を横切る。

右手に置いてある大きなソファーを横目に、向かいにあるドアを目指す。

中程まで進んだところで、ふと背後からしんとした気配を感じ、振り返った。


心臓が止まるかと思った。

居間に置いてある大きなソファー。その中央に、見たことも無い格好の、見たことも無い

女の人が座っていた。

青いフード付きのローブ、長いスカート、少し傾げた首、そして腕に抱いた赤子。

驚いて、思わず声を上げようとしたが声が出ない。


そこで俺は異変に気付いた。

部屋から全ての音が消えていた。

ノイズひとつ聞こえない、完全な静寂。

そして部屋の色、壁も、ソファーも、床も、全てがフィルターを通したように青みがかっていた。

部屋の温度も下がっている。少し寒い。夏なのに。

青暗く、音の無い部屋、冷たい空気。

そこでさらに気付く。タバコの匂いもしない。

じぶんちの居間なのに、まるで別世界だ。


でも、恐怖は一切感じなかった。

俺は目も心も、ソファーの女の人に釘付けだったからだろうか。

ゆっくり体全体を前後に揺らしながら、女の人の口元が動いている。

歌っているのだろうか。聞こえないのでわからないが、きっとそうだ。今思えば、子守唄だったのだろう。


気付けば俺は泣いていた。

何故か無性に悲しくて、切なくて、懐かしくて。

でもそれ以上に、目の前の光景があまりにも『美しい』と思ったから。

そのまましばらくの間、静かに泣いていた。

泣きながら、見惚れていた。

どれだけそうしていただろうか。

突然、俺の頭の中に、夢の中で見た花嫁の笑顔が浮かんだ。夢の花嫁は、目の前の女の人とは全然違う人なのに。


「ただいまー」

あっけない程唐突に、音が戻る。姉の声だ。

同時に、目の前の女の人が消えた。

アブラゼミの鳴声が煩い、壁も床もソファーも青くない、暑い。

いつもの薄暗い、ちょと不気味なだけの居間。親父の吸ったタバコの残り香がする。

ああそうか。俺は理解した。

あの美しい光景は失われてしまったんだ、と。

しばらく呆然と立ち尽くしていると、キッチン側のドアが開いた。

「どげんしたとね?!」

振り向くと、祖母が驚いた顔でこっちを見ている。

俺は祖母に抱きつき、泣いた。ただただ泣いた。

祖母はそれ以上何も聞かず、ずっと頭を撫でてくれた。


その日から、もうあの怖い夢を見ることはなくなった。

代わりに、夢の中の花嫁の笑顔も思い出せなくなってしまった。とても綺麗な笑顔だったはずなのに。


そしてその数日後、妹が生まれ、俺は兄になった。

10年後、俺は中学生になってた。妹とは仲良く喧嘩ばかり。

夢のことや、あの居間での出来事なんかすっかり忘れていた。


そんなある日、美術史の授業があった。

美術なんて、音楽や体育、家庭科と並んで、『実技は楽しいけど座学はつまらない』科目だ。

当然、催眠効果も大きい。実際、クラスの過半数は夢の世界に旅立つのが常だ。

俺も慣例に漏れず、半分寝ながら授業受けてた。

スライドで絵を写しながら先生が何やら解説しているが、まるで頭に入らない。

しかし、スライドが一枚の絵に切り替わった瞬間、俺の脳は過去へと繋がり、一気に覚醒した。

それどころか思わず立ち上がって、「あぁっ!!?」と叫んでしまった。

教室はザワついたが知ったこっちゃない。

信じられなかったし、わけがわからなかった。今でもそうだ。ありえない。

『大公の聖母』ラファエロ・サンティ(1504年)

そんなタイトルと共に映し出されていたのは、

見紛うはずもない、あの日、あの居間で見た、あの女の人そのものだったのだから。


夢の女性と居間の女性、そしてラファエロの絵、関連があるのかは判らない。

だが俺は、死ぬまでに本物の『大公の聖母』をこの目で見たい。いや、見なければならないと思っている。

WUNDERKAMMER

名作は、名作と呼ばれる理由があるはず。 それを求めて映画や本を観ています。 あとは奇妙なもの、怖い話や自分が好きなものをここに集めています。

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