1371
満ち潮の夜、今世紀最大の満月が地球の海を吸い取った。それでも少し水面が下がる程で天変地異にならなかったが、夜になると月明かりに乗って水面の揺らぎが降り注ぎ、コンクリートを未明の海底に沈める様になった。寝静まる街にて、噂では目覚めない寂しがり達は皆、夢から月へと泳いでいったらしい。
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1372
夜、チャイムが鳴ったので開けると帽子を深く被った紳士がいた。マフラーには青い八芒星のブローチが輝き、「長旅でして、牛乳を一杯頂けませんか」と言うので差し出すと途端に消えてしまい、開いたままのドアから彗星が北へ飛んで行くのが見え、空になったコップの隣には金平糖が三つ置かれていた。
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1373
ある夜溶けた月が世界を満たし、それから私は夢を見続けている。夢の中では君と一緒に廃団地や草むら、誰もいない水族館の中を遊んでいて、二人ぼっちの世界で金色の後光を背負った君はどんな暗い洞窟でも照らしてくれるのに私は君の名前すらも知らなくて、私達の空にはいつまでも月だけが消えている。
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1374
明るい未明に沈んだ街にて、眠れない私は一つだけ灯ったプラネタリウムへ入り込んだ。窓から射す月明かりを泳ぐ埃達は海底の泡沫の様で、上映中と光るスクリーンルームへ入ると中では太古の昔に滅んだ名前のない星達が輝いており、その中央では随分昔に死んでしまった君が画面一杯に丸まり眠っていた。
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1375
窓を叩く音に目を覚ますと外に君がいた。背中の網には宝石の様な棒無しの林檎飴が入っており、「さっき彗星を獲ったんだ」と言って半分に切ったそれは酷く冷たいのか銀の煙を漂わせながら微かに炭酸の弾ける音がして、「願い事は決めた?」と差し出す君越しに見た青い夜には、音もなく星が降っていた。
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1376
西の砂漠にある遺跡からケンタウロスの化石が見つかった。少女らしいそれは眠る様に横たわり真白な骨のうちで心臓付近の肋骨だけが螺鈿色のオパールになっていたらしく、噴水と絶滅したと思われていた草花が生い茂るその出口のない箱庭にはただ、愛されていた跡だけが今尚残っていたという。
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1377
目覚めると私は涙を流しており、窓の外を見ると夜に取り残された街灯が点々と燈る中、白と黒の風船達が一斉に空へ登っていくのが見えた。辺りを見渡すとほかの家々も同じく風船の行き先を見届けているのか住民達が立っており、祈りの様な世界の中、「一体誰が死んだのだろう」と君がぽつりと呟いた。
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1378
君が見せてくれた水槽には一匹の小さな魚が泳いでいた。真白なそれは仄かに涼しい光を纏っており、「月を育てているんだ」と君は螺鈿の粉を与えては食べる姿を優しい目で見ていたのだがある日の夜明け前、電話を貰い家へ行くと水槽には銀細工の様な月がまだ眠る街の隅にて、神様みたいに浮かんでいた。
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1379
私が選ばなかった世界線にも月が有りますように。君に幸あれ。平衡感覚を失った不良品達のパレードが誰かの念写した月の裏側に到達したらしく、私は君が消した一文を推測する事すら叶わない。懺悔と優しさが似ているのは色が近いからで、これを幸福と呼ぼうか、それが叶わないなら火に飛び込もうか。
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1380
深夜、水族館を警備していると一番大きな水槽の水中観覧席に檸檬が座っていた。「海を見に来たんです」と檸檬は言い、イルカ達も眠り生物のいなくなった水槽を、月明かりだけが降る青色の底を同じ色に照らされながら眺めており、ふと海の香りがして隣を見ると檸檬は消え、小さな水溜りになっていた。
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