俺の実家は山あいの村で、昔は猿がキュウリやらトマトやら畑に盗みにくるくらい田舎だった。
小学校3年の夏、四つ上の兄貴と一緒に友達んち遊びにいった時のこと。すっかり日が暮れて、夕飯まで御馳走になってしまった。 帰る時に友達のおかあさんは、「懐中電灯貸そうか」って言ってくれたんだけど、 兄貴は「月がでてるから大丈夫です」って言って断ったんだ。
その夜はいい満月で、雑木林の中でも暗いって思う事はなかった。
で、ジャリ道歩いてたんだけど、俺急につまずいた。 手も膝小僧もすりむいちゃって、ちょっと涙目になった。 起き上がって、なんにつまずいたんだろ?って眺めると、 兄貴が「おい!お前・・・」って言って、俺の足もと指差した。
最初兄貴が何言ってるのかわからなかったけど、しばらくして俺も気付いた。
兄貴の影はひとつ。俺の影はふたつあった。
その時、変な声が聞こえた。囁くような、いやらしいしゃがれ声。見ると、影がますますおかしい。 俺は動いてないのに、右側の影だけ震えてる。 肩を震わせて、まるで笑ってるようだ。
兄貴が小さく叫んだ。 「おい、走るぞっ」
だけど俺は動けない。見たくないのに、すごい嫌なのに、影から目が離せなくなってる。まるで金縛りだ。
「何やってんだ!行くぞ!」 兄貴が怒鳴って俺の手つかんだ。
地面の上の兄貴の影が、俺の影をつかもうとした時、 変な影が一瞬早く腕を伸ばして、俺の影をグイッてひっぱった。
変な影は俺の影をひきずったまま、林ん中へぱたぱた逃げてった。
現実の兄貴は俺の手をしっかり握ってるのに、地面の上の兄貴の影の先には何もない。
なにか取り返しのつかない事が起きた気がした。 俺は泣き出した。急に怖くなって大声あげて泣いた。 兄貴も青ざめていた。
だけど、行動は早かった。 「お前ここにいろ。絶対に動くな」って言ったがはやいか、 兄貴は林の中を掻き分けて飛び込んでいった。 俺「行っちゃ嫌だー」って叫んだんだけど、「動くなよっ」。
兄貴の最後の声が薮の中から聞こえてきて、それっきり静かになった。
ずいぶん待ったけど、兄貴が帰ってくる事はなかった。
兄貴の言いつけを守れず、俺は泣きながら家に帰った。 両親は俺が独りで帰ったのでびっくりしていた。 俺は一生懸命説明したが、理解してもらえなかったらしい。
親父は兄貴を探すため家を飛び出していった。 何度も本当の事だと言ったが、お袋はなだめるばかりで、俺はとうとうかんしゃくをおこした。 お袋は困った顔で言った。
「でも、ほら、あなたの影はちゃんとあるわよ」
畳の上をみた。俺の影はあった。
最悪の事態を予想していた両親と俺だったが、次の朝、兄貴はひとりで帰ってきた。
そのまま倒れるようにして眠ると、夕方目を覚まして俺に言った。
「お前、本物か?」 「何言ってるの?」と俺が聞くと、兄貴は難しい顔をした。
影を追って森の中を走っていると、草むらで大きな猿にであったらしい。
その猿は俺の顔をしており、俺の声で笑ったそうだ。
逆上した兄は、ポケットにあったベーゴマをわしづかみにすると、猿にむかって投げつけた。 ひとつが額に命中し、猿はぎゃっと悲鳴をあげて顔を覆った。
猿が振り向いた時、その顔は渦を巻いたようにねじれており、もはや目も口もわからなかったそうだ。
化け物は兄に飛びかかり、すごい力で兄の首を締め上げた。 かなわないと思った兄は、その手に思いっきり噛みついた。 兄は突き飛ばされ木に頭をぶつけて、そのまま気を失ってしまったそうだ。
そこまで話すと兄貴は黙りこくった。 俺はおそるおそる尋ねた。
「お兄ちゃんこそ本物なの?」 むっとした顔で兄は俺の頭を殴った。 「ふざけんな、この野郎」 いつもの優しい軽いゲンコツだった。
俺は泣きながら笑った。兄貴も笑った。
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